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【第六話・正義】

あれから数ヶ月後――。

パン工場の裏手にある桜の枝の蕾もはち切れんばかりに膨らんで、風が春の香りを運ぶようになってきた。

心地よい日射しの中、アンパンマンは空に漂う気球のようにゆらゆらと気持ちよく空を飛んでいた。
天気が穏やかなのと、ここ最近あまり事件がないのも手伝ってか、町の様子もどことなくのびやかで、もはやパトロールの必要性すらないのではないかとアンパンマンを錯覚させる程に平和だった。


しかしアンパンマンには心に引っかかることが一つあった。
数ヶ月前、バイキンマンが別れ際に言った一言。

「“ほんとうの正義”なんて在るのか――」

今まで自分の掲げる正義を疑いもなしに“正しい”と信じて、愚直な程にそれに従って行動してきたアンパンマンにとって、バイキンマンの一言は鋭利な刃物のようだった。

誰にとっても正しい、“ほんとうの正義”。
それはアンパンマンにとって、他ならぬ自分の正義であった。

勧善懲悪。人を傷つける者は全て悪。“正義”の対義語は“悪”。

アンパンマンはそれらの認識が万人に共通するものだと思い込んでいた。少なくともあの日までは。

あの日以来、アンパンマンは自分の正義に少し疑問を持つようになっていた。

――自分の正義は、ほんとうに“正しい”のか?
自分が勝手にそう信じているだけで、実はそうではないのかも。
“正しい”と思うことを勝手に他人に押し付けているだけで、もしかしたら、そうすることで知らぬ間に人を傷つけているのかもしれない。

頭の中のアンが溶けだしてしまいそうなくらい考えた。しかしいくら思考を巡らせど、答えは何処にもなかった。


今日もそうこう自問自答をしながらパトロールをしている内に、そろそろ日が西に傾いてきたことにアンパンマンはようやく気がついた。

「春とはいっても、日が沈むのはまだまだ早いな。今日のパトロールはそろそろ終わろうか。」

マントを翻し、パン工場の方向に引き返そうとしたその時、不意に誰かの叫び声が背中の方で聞こえた。


*******


「うわ〜、やめてくんろ〜!!」

――いけない、かまめしどんが誰かに襲われている!

アンパンマンは、矢よりも早く声の方向へ飛んでいった。

「えぇ〜い、うるさいうるさい!おとなしく俺様の言うことをきくんだ!!」

――バイキンマン!?

かまめしどんを襲っていたのは、案の定、とも言うべきか、バイキンマンだった。ただ、あまりの久方振りに目撃する彼の姿は、アンパンマンにとって殊のほか意外なことのように思えた。

「やめろ、バイキンマン!何をしているんだ!」

嫌がるかまめしどんの頭の上の蓋を無理やり取ろうとしているバイキンマン。

「あ、アンパンマン!来てくれただか!?バイキンマンがおらの釜の中に赤飯を入れて『炊け!』ってしつこいだよ!おらァ赤飯は嫌いなんだべぇ〜!」

「なんでそんな酷いことをするんだ!?」

アンパンマンは失望した。あの日、ニコニコ園で語り合ったバイキンマンの瞳は確かに、深い哀しみと慈愛を湛えた、優しい瞳であった。あの日以来、アンパンマンは彼の事を少し見直した、と思っていた。そしてこの数ヶ月、一度も悪事を働くことはかったバイキンマンに対し、「すっかり改心したのかな」と、淡い期待すら覚えていたのであった。
しかし、バイキンマンは再び彼の前に現れた。そして以前のようにまた人を襲っている。
アンパンマンは、馬鹿な期待を抱いていた自分自身を呪った。

「きみはやっぱりそういうヤツだったんだ!そうやって自分の正義を振りかざして他人を傷つける!結局は他人を踏み台にして自分を正当化したいだけじゃないか!!そんな正義、ほんとうの正義じゃない!!」

アンパンマンは、ようやくバイキンマンの問いに対する答えが見つかったような気がした。
そうだ、他人の犠牲の上に成り立つ正義なんて、もはやただの傲慢な自己満足にしか過ぎないんだ――

「“踏み台”だと?他人を踏み台にしてのうのうと生きているのはどっちだ?この地球上に飢餓と栄養不足で苦しんでいるが一体何人いるか知ってるかよ!?8億だ。いいか、8億人だぜ?お前らはその8億人の不幸を踏み台にして毎日食事にもモノにも困らずに生きているんだ!この町の子供が嬉しそうに貰ってやがては飽きて捨てていくオモチャで、そのオモチャ一つの値段で、何人の命が救えると思ってんだよ!!
今日はな、ニコニコ園の子供の一人が、園を出るんだよ!貧相な畑で一生懸命作った野菜を売った銭をコツコツ貯めて、今年の春から学校に行けることになったんだ!そんなアイツの晴れ舞台に、赤飯の一つ炊いて悪いかよ!!」

アンパンマンは絶句した。確かに、アンパンマンの顔の作る材料をはじめこの町の多くの食物は、貧しい村から安価で仕入れている。しょくぱんまんもカレーパンマンもおむすびまんも、他村から仕入れた材料なしには存在しえなかったし、生きていけないのである。

アンパンマンは悟った。自分の正義すらも、所詮は他人を踏み台にした欺瞞に満ちた正義であったことを。


正義、セイギ、セイギ、せいぎ、セイギ…………」


今まで自分の存在を支えていたもの、そして自分がこの世に生を受けてきた意義すらも根底から覆されたアンパンマンは、もはや自我が崩壊してしまっていた。


「ソンナ… セイギ、アク…… チガウ…ボク ハ セイギ、タダシイ…… ソウダ、ボク ハ アク ヲ ホロボス タメニ ウマレタ……」

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


暴走した赤い影がバイキンマンを襲撃した。そしてバイキンマンに上にマウントをとるような形になったその“赤いモノ”は、バイキンマンをひたすらに殴打し続けた。何度も、何度も。

「アンパンチ、アンパンチ、アンパンチ、アンパンチ、アンパ……くけけけけけけけけけけけけけけ!!!!!」

精神が崩壊したアンパンマンは、もはや自身が“アク”と識別するモノをただ闇雲に破壊するだけの、兵器と化した。


ほとばしる“セイギ”の狂気に、今年初めての桜の花びらが、揺れた。